読者からのあの時この一枚
(その2)

読者からの思い出のフォトアルバム =98年1月3週号以前の掲載分

◇齋藤君夫さん(山形県)

 (写真上) 昭和29年3月、渡前村農耕馬飼養管理品評会(開会式と飼養管理品評会風景)です。農業を基幹とする本県では、戦後、大部分は農耕馬として耕うん、運搬作業に不可欠の労働源として人馬一体の生活を営む時代でした。飼養管理品評会に愛馬を出品し、英気を競い、喜び合い、自慢をする大行事とうかがっています。
 (写真下) 昭和27年4月、小学校の体操場で行われた渡前村農業共済組合第3回通常総会風景です。農業共済組合設立当時は、事務所も農協の片すみで、しかも組合長も兼任専任職員も1?2人の自主的な体制でした。通常総会も農業協同組合の総会と併用で開催されていました。

◇梅沢馨さん(千葉県)提供。昭和13年ころ撮影。

 昭和13年の秋、私の庭でもみ乾燥の風景です。むしろにもみを広げて1日か2日おいた後でもみすりをしました。鶏は当時飼っていたもので、向こうのわらは、「いなぶら藁(わら)」(束ねて積んでおいた藁、最近のようにビニールシートもなく露天のため一番上は駄目になるが中のわらを使ってむしろやかますを織った)をしまっておく風景です。

◇笹原文男さん(山形県)提供。昭和40年ころ撮影。

 祖父が農作業用の草履「足中(あしなか)」を作っている時の写真です。冬場の農閑期には、榾(ほだ)木の燃えている囲炉裏(いろり)のそばで、綿入れ着物にモンペをはいてわら仕事の毎日でした。米を入れる俵やさんだわらに縄、蓑(みの)に荷縄に雪沓(ゆきぐつ)、牛馬用の蓑(みの)や沓(くつ)、畳や自在かぎまで、全部手作りするのでした。

◇遠藤政雄さん(石川県)提供。

 (写真左) 昭和39年ごろ、打木町特産「打木源助大根」の共同出荷風景です。当時、集荷は荷車(大八車)で、ダイコンは葉付きで5本絡げて1束でした。連日大型トラックで関西市場へ出荷されていきました。現在は、葉を切り取り段ボール箱に詰められ出荷されています。
 (写真右) 昭和33年ごろ、水田の裏作振興が強く叫ばれた時代でした。当地ではタマネギを取り上げ、共同育苗圃を作りました。当時はすべてが手作業で大変な苦労がありました。

◇大森玲子さん(栃木県)提供。昭和22年ころ撮影。

 ちょうど50年前の母の写真になるでしょうか。働き者で容姿端麗だった母は46歳で亡くなりましたが、農業が好きで、その影響で私も農家に嫁いだ(昭和45年)のです。嫁入り支度にかすりももひき、手っ甲、帯、など持ってきましたが、田植えの時だけ3年くらい着て、田植機が入ってからは押し入れに眠っています。

◇上原ひろさん(北海道)提供。昭和40年ころ撮影。

 集落総出で農業用排水溝のヘドロさらいをして居るところです。みんな特長靴をはいて1列になって一生懸命スコップで仕事をしたものです。今では、何でも機械がやってくれるので楽ですけれど、昔はみな手作業でした。農業もこんなに楽ができるとは思いませんでした。この写真は一服休みをして居るところです。女子は、主人が亡くなりました私1人です。

◇蛯原茂樹さん(宮崎県)

 (写真左・中) 写真にあります人物手前の男性は小生蛯原茂樹で、感電事故のため右前腕切断(ひじ部分)左手前腕骨折(切断同様、障害1級)で、田んぼすきを両腕を利用するために改造して、馬を使い1町あまりを耕作し、農業経営に励んでまいりました。左手前方に立っているのは妻です。右手の方にかがみ、肥料を出して手伝っているのは、当時中学2年生の息子で、農業に頑張りました。昭和46年3月、春耕作業中です。
 (写真右) 昭和30年5月30日撮影。41年前は、水稲育苗には苗代に全面水を張り、種もみをまいて苗を育てた時代でした。現在は田植機が普及し、箱苗になり、労力も軽減され、人力でも楽な時代となりました。父母および妻の3人で種まき作業中です。

◇古永正好さん(石川県羽咋市)提供。
 昭和44年撮影。

 夢みたいな話と皆さんに言われ、笑われましたが、この苗まき機で田植えのできることが証明されました。箱育苗、ヒモ苗、手探りの出発でしたが、いろんな人たちの指導を受けてできました。昭和44年、耕作地は280アールでした。田植え機、除草剤、コンバイン、乾燥機の一貫体系が成功したのです。

◇渡辺クラさん(栃木県)提供。平成7年撮影。

 親類の方が6、7年前から休耕田5、6アールを使ってソバ作りをしています。2年前に出かけて撮影しました。家で作ったソバは特別おいしいと、近所の方と一緒に、疲れも忘れてにこにこしながらソバをはたいています。今年はひょうにぶたれ、出来は少し悪いようです。

◇米沢弘志さん(秋田県鹿角市)

 昭和37年撮影。昭和37年9月23日に私が撮りました。当時はどこでも手刈りで、私たちは「ヨイコ」といって共同作業をし、お互いに都合をみて助けたり、助けられたりして、田植え、稲刈りをしました。現在でも、私は自家用飯米は一条刈りバインダーで刈り、ハサ掛けの自然乾燥をしています。

◇棚村博さん(新潟県見附市)提供。昭和31年撮影。

 水稲の大敵、ニカメイチュウ駆除の特効薬として昭和27年に発売され、四十二年には禁止となったパラチオン乳剤の共同散布と、一休みの時、私が撮ったものです(昭和31年6月)。今思うと命と背中合わせのような薬剤散布作業でした。しかし、おかげで増収できまして、恐いながらも特効薬でした。41年前、農作業の思い出のひとこまです。

◇田村三千夫さん(広島県双三郡三和町)提供。
 昭和29年撮影。

 農業協同組合の米倉庫は、秋になると60キロ入りの俵が高く積まれ、まさに黄金のみのり、感謝の秋でもあった。当時この60キロの一俵は3648円、俵を肩にする職員の月給は3500円…。農業が職業でも良かった…。今、60キロの米代は1日半の日給である。

◇赤堀芳子さん(静岡県小笠郡大須賀町)提供。
 昭和56年撮影。

 刈り取りもすましてかかし横になり--。昭和56年10月、心配した台風もなく、ウンカの被害もなし、作柄まあまあというところです。手で植え付け、スガエで縛り、今日から脱穀です。2.5馬力の発動機でベルト回しです。リヤカーの側では孫娘、いとも気持ちよさそうに手ぬぐいかぶり昼寝です。今は横浜の大学で頑張っています。つなぎの作業衣を着て体格の良い主人は仕事熱心です。私は苦労を苦労とも思わず、ぐち一つも言わずに従順一條の時代を過ごしてきました。

◇小島喜由さん(新潟県中魚沼郡津南町)提供。
 昭和26年ごろ撮影。

 昭和20年代までは畜力による農業経営だった。運搬するものすべてが、牛馬の背が頼りであり、農耕作業に大きな力となった。この写真は、車を引かせた、私が25歳ごろの1枚であるが、牛と暮らした当時が懐かしい。耕うん機にトレーラーを引かせて20年。トラックに変わって20年たった。むら(集落)こぞって専農だったのが、畜力時代まで。当時のむらは今より活力があった。

◇越田由一さん(青森県東津軽郡蓬田村)提供。
 昭和30年6月撮影。

 昭和29年の台風15号により、農作物の収穫も災害にあい、新しい翌年の豊作を祈りながら笑顔で田植えをする農家の姿を写した写真です。当時、私はまだ15歳だった。現在では水田も整備され、田植えや稲刈りも機械、農薬散布はヘリコプターなどです。水苗代の苗とり、苗代田から苗を運び出す姿、田植えの姿--今では写真でしか見ることはなく、農業も農村も変わったと感じる思い出の写真です。

◇伊藤洋子さん(島根県簸川郡佐田町)提供。
 昭和32年撮影。

 牛と父と妹の唯一の農作業の様子です。集団就職していた私に自分で現像して送ってくれました。疲れ果てて動けない牛をいたわりながらも働いてもらわねばならない。働いて働いて人も牛も労働から解放され、わが家に帰った牛の目の涙を見たとき、私も悲しくなったものでした。牛に頼っていた農業の時代でした。上の方には笹小屋のハデ小屋(はさ架けに使う棒を保管する)です。この風物も今は珍しくなりつつあります。古い農具を見る時、今の農作業の楽なことを感謝しつつ、毎日田んぼを見て歩いています。

◇吾郷亘さん(島根県松江市)提供。
 昭和32年撮影。

 昭和30年代初期ごろまでは、奥出雲地方で百頭近い馬が飼育されていて、春の発情期には鳥上村(現・島根県仁多郡横田町)の種牛所に、鳥取県種畜場から種牡馬が出張してきて、農協の家畜人工授精師が飼育管理から種付けまで一切を担当していた。農業の機械化とともに飼育頭数が漸減し。種牡馬も来なくなり、まもなく馬は姿を消してしまった。

◇山口公則さん(大分県東国東郡国見町)提供。
 昭和31年撮影。

 終戦後10年を過ぎたころの農作業風景です。最近の新機種の稲収穫とはまるっきり違っていました。一列ごとの稲を4、5人で並んで鎌で刈り取りました。3、4日田んぼに広げ干しをして、写真のように足踏み脱穀機でゴーリン、ゴーリンと穂を落としたものです。30分おきくらいに交代し、5、6時間はかかったものです。穂を落としたわらの片づけと、意気投合の作業です。写真はちょうどコビル(おやつ)の時間です。いろいろと世間話や今年の米の出来は良いとか、悪いとか、話が弾みました。

◇工藤竹治さん(秋田県仙北郡西仙北町)提供。

 昭和60年11月、田んぼの深いぬかるみにはコンバインは不可能。そこで呼び掛けに応じ、友人がお手伝いの助っ人手刈りの名人勢ぞろい。ゴム手袋をぬぎ、田んぼのあぜでお茶タイム。おいしそうです。西仙北町刈和野田中、佐藤幸作さん方の田んぼで撮影したものです。

◇阿部良巳さん(岩手県胆沢郡前沢町)提供。平成6年撮影。

 5年前、まったく天雨なく日照り続き、豊作目前にまったく水が不足で、私たち天王野起水田の水不足のため、写真のように八カ所でブッコミ(鉄管を打ち込み地下水補給のための)作業現場です。本家で自宅前に、分家では水田平野に打ち込み作業をしました。本家では個人、分家では4人共同で、私がその場に立ち寄ったときの撮影です。ダムの水もまったくありませんで、やむにやまれずとはこの時のことでしょう。

◇寺沢租さん(長野県長野市小島田)提供。昭和58年撮影。

 長野県飯山地方は、昭和57年9月13日(左岸)と翌58年9月28?29日(右岸)の2回千曲川の堤防が決壊し大水害に見舞われた。写真は58年のもので、災害田(逆流により冠水した水田跡)は堤防決壊場所近くの水田。人力による稲刈り(機械が使えない水田)。コンバインによる収穫・脱穀作業は砂ぼこりがすごい。水害半月後の状況で、後始末の大変さがうかがえる。

◇伊藤忠温さん(秋田県仙北郡神岡町北楢岡)

 昭和32年撮影。神岡町北楢岡地区で昭和32年に発生した309棟を焼く大火災。被災のあと火災保険の重要性が認識され、現在301世帯が加入している農業関係団体の建物共済契約高は約37億640万円。隔世の感がある。

◇五十嵐孝一さん(山形県東置賜郡川西町)
 昭和25、6年ごろ撮影。

 農業(稲作)のかたわら、七島蘭(畳、たたみ)表を作る仕事も頑張っていました。その七島蘭の作業の中の一枚を送ります。中央左に立ってせん別作業を行っているのが自分です。

◇木藤正一さん(秋田県山本郡峰浜村)
 昭和51年撮影。

 今から20数年前、農業構造改善として集落営農集団が各地に誕生しました。わが集落も5名の営農集団が50年に結成されました。作業舎、トラクター、もみすり機、コンバイン、乾燥機、田植機等々が半額の補助で入りました。コンバインは51年10月に入り、価格は250万円でした。10月5日の試運転の写真です。今はこのコンバインは最新型に替わり、各集団はほとんど解散となりましたが、わが集団は依然として頑張って地域に貢献しております。

◇佐々木照子さん(宮城県栗原郡築館町)
 昭和15年撮影。

 昭和15年の炭坑の起業記念写真。石炭層を短時間で掘り当て、笑いが止まらなかったのではと推測されます。和服姿の2人が山主。ちなみに、写真にいる方々で生存者はゼロです。

◇井村和宏さん(北海道江別市野幌美幸町)昭和50年頃撮影。

 終戦から昭和45年前後まで、自給飼料用に農家の庭先で見かけた「はさ干しトウキビ」。食糧の代用にもされ、どこの家でも皮をむいて干してありました。今はF1で自家採種は無理ですが、当時は家畜と人が使う種子用と、農家の自家用にと、すべての種子の保存に努めました。

◇田中佐和子さん(宮城県加美郡中新田町四日市場)
 昭和41年撮影。

 米俵から米袋への切り替えの時代で、主人が最後だから写したほうが良いと話してたのを本当に懐かしく思います。主人は人一倍働き者でしたが体調を崩し他界し20年になります。今長男たちは一生懸命です。専業農家ではなかなか大変で暇なときは働きに出ています。写真は祖父母、主人、私、となりの人です。

◇高橋キセさん(秋田県仙北郡千畑町畑屋)提供。
 昭和47年、高橋次郎氏撮影。

 畑作農家に生まれ育った私が結婚後慣れない田仕事に苦労し、やっとどうにか出来るようになり、はじめて人と交じって田植えをした時です。主人の「こっち向け」にニッコリ(本人=右端)。主人がカメラを買ったばかりで、初めてシャッターを押した記念の写真です。見合いもしない、写真の交換もない、結婚写真もない、もちろん新婚旅行も出来なかった2人にとって唯一の思い出のある大事な写真です。

◇谷本清子さん(広島県高田郡高宮町佐々部)提供。

 昭和47年の豪雨がついこの間のようによみがえってきます。がけ崩れ、家屋崩壊、道路寸断と、被害は大きかった。写真は高宮町佐々部の式敷(しきじき)大橋が流失する寸前で、中央はすでに流されています。向こうに見える集落は作木村川毛地区です。

◇川田毅さん(香川県小豆郡土庄町大部)提供。
 昭和46年撮影。

 30年前、この風景は田舎では珍しいものではなかった。しかし、父が他界し親分を失った牛は売られていった。そして中古の耕うん機を買ったのだった。この写真は、親父と牛の最後の勇姿である。

◇橋本貞子さん(香川県高松市岡本町)提供。
 昭和51年、高松市一の宮町琴電一宮駅南側撮影。

 里へ田植えの手伝いに行って父、母、私(右)、ニコニコしている妹(左)と弟たち3人です。畑の苗取りをしていたら近所のカメラ好きな男の子が撮ってくれた1枚。腰掛けはわら束で素足、この時はみんな元気で良かった。私は68歳、元気に農業しています。

<< 農業共済新聞トップへ