読者からのあの時この一枚
(その1)

読者からの思い出のフォトアルバム =98年2月1週、1月4週号掲載分

◇田原信雄さん(秋田県雄勝郡雄勝町)

 40年ほど前の写真です。青年会が集落から借り受けた山に植林した時のものです。当時は、農家の長男、長女を中心に、家の手伝いをしながら青年会に入り、他町との交流をしたものです。この時、植林した杉が、今、私たちの息子に受け継がれ、毎年の事業として下刈りが続けられております。

◇安藤光男さん(秋田県北秋田郡比内町)。
 昭和34年撮影。

 集落の寄り合いによる田植えで、女たちの姿が多かった。朝7時頃から夕方7時頃までのきびしい農作業の連続でありました。午前10時頃の小昼(当地方は?こだり?)と午後3時ごろの一服休み、小休止兼間食時には草原に車座になります。田主から、小昼にはおはぎと手料理を、一服休みにはお菓子、果物、飲み物(濁り酒等)をご馳走になりました。話題は「特ダネモノ」にかん高い笑い声があがり、植え終えた青田に響き渡ったものでした。

◇古川重衛さん(福島県郡山市)。

 昭和37年頃。当時の田植えは人力によるもので、近隣や親せきなど、30人ほどの人手を借り(俗にいう「結(ゆい)」を借り)て作業をしていた。写真は郡山農業試験場前にあった圃場です。

◇高橋チイさん(新潟県三島郡越路町)。

 昭和30年前後の水苗代全盛時代の1枚です。春、ようやくあぜ形がうっすらと解けかけた頃を見計らって、苗代に灰、土などを散布し、雪消しを促します。隣田(普通田)より積雪量もはっきりと違いが分かる頃、春一番の大仕事が苗代作りです。そして田耕に備えて早くあぜを塗り田面を乾かす。水田用ゴム長靴などは、もちろんまだ無く、わらじばきでの苗代のあぜ塗り姿です。自動シャッターで(2眼レフの重い大きなカメラ)で自分で写したものです。今となっては貴重な、私の大切な1枚となりました。

◇寺沢租さん(長野県長野市)。昭和60年撮影。

 損害評価員をしていた時の一部です。長野市北部牟礼村の水害による水田の流出した写真です。また同年9月27日の木曽郡開田村の降ひょうによる水稲の被害も記録にあります。



◇寺沢租さん(長野県長野市)

 昭和38年撮影。農事試験場で主にイモチ病に関係した仕事をしながら撮った写真が、現職を退いて10年近くになりました今はすっかり遊んでおります。写真は、田植機の試作機の実演風景です。人力の成苗植えで、当時は珍しく、技術者が多く集まって見守っています。

◇武田章さん(島根県飯石郡赤来町)。
 昭和41年撮影。

 1.3ヘクタールばかりの水稲苗代。朝から播種をやり、焼きすくも(もみがら)をふって、夕方になって上に有孔ポリを被覆している様子です。1日で済ますため、隣家と手間替えで4人で100坪ばかりをやっていました。

◇米沢弘志さん(秋田県鹿角市)。昭和14年撮影。

 戦前の農村は、娯楽もなく働く一方で、近くの鉱山でたまに映画があると、大分遠い村からも歩いて見に来るのが一番の楽しみでした。その頃、農村では素人演芸会が流行しており、集落でも秋祭りに演芸会をし、私たち末広地区が優勝した時の記念写真です。すげ笠かむりが私で、「赤垣源蔵徳利の別れ」の剣舞姿です。約60年前の、私には大切な写真です。

◇金野茂さん(岩手県東磐井郡千厩町)。
 昭和28年撮影。

 昭和28年撮影。この写真は、私たち夫婦が研究テーマとした「水稲2期作」のうち、2期目の苗取りです。この年の岩手は冷害であり、研究の結果が注目されました。1期分の苗代は油紙による保温折衷、2期目は水苗代でした。2期の田植えは、1期目の刈り取り前の条間へ行いました。各期ともに一定の収量となりましたが、多収性の品種開発により、普及されずに終ったのです。

◇外村重雄さん(滋賀県八日市市)。昭和32年撮影。

 ちょうど40年前、私が22歳の時。当時の御園村(みそのむら)字外村の20歳前後の若者ばかりです。村の青年団といいました。稲刈りの真っ最中で、当時は全部手作業ですので、1日青年団で出役して、手間のない家、年寄りの家などに稲刈りの奉仕作業をしてまわった時の写真で、全員独身です。前列左から2人目が小生です。なんともいえないのどかで懐かしい1枚です。娘さんは全員60歳以上のおばあちゃんになっています。

◇木島則明さん(広島県賀茂郡豊栄町)。
 昭和28年撮影。

 明治2年生まれの祖父が縁側の前でわらぞうりを作っている写真です。当時はまだ、わらぞうりかげたをはくのが日常だったと思います。働き者の祖父は、冬にはわら仕事をし、農繁期にはわらじをはいて、草刈りをよくしておりました。その頃、私は小学生でしたが、そのわらぞうりをはいて野山を駆け回って良く遊んだものです。その祖父も昭和35年に亡くなり、当時を思い出す今日このごろです。

◇梅沢宣朗さん(秋田県横手市)。
 平成3年9月28日撮影。

 9月28日未明に、台風19号がリンゴ畑を襲った写真です。朝早く撮ったので暗い写真です。前日の27日は無風で小雨が降っていましたが、ラジオを聞きながら、こんなに静かなのに台風が来るだろうかと思いながら支柱を見回っていました。28日は午前2時ころから風が強くなりだし、5時30分ころから6時ごろまでが最高で、秋田では最大51.4メートルだったそうです。こんな大被害は初めてなので思い出として撮っておりました。そして残ったリンゴの「ふじ」は収穫期まで、ほとんど熊にやられ、収穫はゼロで忘れられない年でした。

◇宮島賢一さん(新潟県西蒲原郡岩室村)。

 当時の代かき風景です。耕うん機に乗っているのは私の妻で、23、4歳でした。馬耕から耕うん機に機械化されて、仕事も楽になり、能率もグーンと上がりました。人間は楽するのが好きで、朝の6時から夕方6時まで、機械について歩くのはとてもつらい仕事です。しかもぬかる水田です。農家の方が考えたのか、歩行型の耕うん機に乗ることにしたのです。何しろ、ぬかる水田に50キロくらいの重さの人が乗るので耕うん機も無理がきます。それで、私より軽い妻が乗っています。米どころ新潟ですので、自然乾燥で、後ろの方は稲を干すハザ木が並んでおります。もう今はこのハザ木はありませんが、岩室村で少し残しておきました。新潟市から写真を撮りにきます。

◇麦島善九さん(長野県木曽郡南木曽町)。
 昭和44年撮影。

 めまぐるしい渦の中で、瑞穂の国と大和民族は急いでどこへいくのでしょう。戦後の写真ですが、私には良い証でした。他所の田畑を見るたびにうらやましい思いです。逆らいもできず、小さく生きてきた緊急開拓の半農民でしたが、補修もできない。壊れ、完全につぶれました。人物は47才の私。水稲の実面積は6アールほどでした。畑は、6年間放置した田にソバを作付けした年のもので、秋のソバ畑です。向こうに見えるのは隣家です。

◇高橋サカエさん(秋田県仙北郡中仙町)。
 昭和13年撮影。

 戦争中は、軍馬として使用するため、馬まで徴用されたものです。その訓練のため、当時は広々とした野原があちこちにありました。写真は、その訓練の途中の1枚です。国旗を持っている馬は、近日中に出馬が決まっていたのです。ちなみに、私の家では3頭が徴用馬として出ました。

◇岩﨑安男さん(群馬県邑楽郡邑楽町)。昭和36年撮影。

 館林市近隣にある邑楽町の戦後の農村風景で、代かき風景、田植時の三時のお休み、田植の早乙女たちです。牛馬にむちを当てての田植え前の代かき、そして人力大勢の力量での田植え作業で、農業経営に励んで生活をしてきました。昨今では兼業農家でも農道具が大型化し、トラクター、コンバイン、田植機と戦前生まれの私たちには夢のような話です。私も考えが古いが、武、農、工、商の昔を忘れず、農業を大切にして生き抜きたく、心がけている一人です。

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