▼ノンフィクション作家の梯久美子氏が書き下ろした『やなせたかしの生涯』(文春文庫)を読んだ。綿密な取材を基に隠れた事実を掘り起こす梯氏の著作が好きで、やなせさんをどのように描くかとの興味からだ。アンパンマンがアニメ化されてからの陽気なおじいさんとの印象とは異なる波乱の人生と知った。
▼5歳で父を亡くし、7歳の時、母の再婚に伴い弟を養子にした伯父夫婦に引き取られた。不自由なく育てられたが常に寂しさを感じていたという。就職した翌年の1941年に21歳で招集され陸軍へ。46年に復員した時は27歳で、弟は戦死していた。
▼戦後は漫画家を志しながらも雑誌編集や広告デザインなど多様な仕事をして雌伏の時を過ごした。絵本『あんぱんまん』の刊行は54歳の73年、アニメの開始は69歳の88年だ。遅咲きの大輪である。
▼驚くことに、怒ったり声を荒げる姿を妻も含め誰も見たことがないという。アンパンマンは、困った人に自らの顔を与えて命をつなぐ。格差と貧困が広がり、対立が激化する世の中に光を一つ残してくれたのだろう。